日野銀山【中石見】

大倉山の南西山麓に存在した“日野銀山”。日南町内では“石見銀山”と呼ばれています。かつて、日野銀山調査会がおこなった調査結果をもとに故・矢田貝喜好(やたがい・きよし)さん(中石見)がまとめられた記録を中心に紹介します。

日野銀山のおこり

鹿野城主・亀井茲矩(これのり)が日野郡で銀山を開いて、その経営にあたったことを示す書状が残っている。文禄4年(1595)4月の、秀吉が亀井茲矩にあてた朱印状である。それには、西伯耆国の日野山で銀を発見したことを賞し、早く掘って有る限り運上せよ、と記されている。

わずか1年で…

当時、この地は吉川広家(ひろいえ)領に属していたため、安國寺恵瓊(あんこくじえけい)が伯州銀山の採掘・経営権が広家に与えられるよう秀吉に要請したという。これにより、文禄5年9月付の秀吉の広家あての朱印状で、伯州日野の銀山の経営権を広家に与え、銀ができ次第運上せよと命じている。したがって、茲矩に与えられた経営権が、翌年には広家に移されたことになる。

銀山の隆盛

記念碑

町坂石畳道の記念碑

間歩(まぶ=坑道掘)は、中石見から上石見にかけて約3kmの間に、試掘2坑を含めて8坑の跡が確認されている。産出された銀は「伯州灰吹(はいふき)銀」として知られ、旧坑は元禄時代まで約百年間採掘が続けられたが、その後産出がなく、廃坑になったという。
銀山の盛んな頃、町坂といわれる道すじは「町坂千軒」と伝えられ、宝暦時代に石畳道に改修したことを示す石碑も残っており、その隆盛がしのばれる。

<参考文献>
『伯耆文化研究 第2号』『日野郡史』『鳥取県史2』『鳥取県の地名』『角川日本地名大辞典31』