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大倉山の南西山麓に存在した“日野銀山”。日南町内では
“石見銀山”と呼ばれています。かつて、日野銀山調査会が
おこなった調査結果をもとに故・矢田貝喜好(やたがい・きよ
し)さん(中石見)がまとめられた記録を中心に紹介します。

●日野銀山のおこり
 鹿野城主・亀井茲矩(これのり)が日野郡で銀山を開いて、その経営にあたったことを示す書状が残っている。文禄4年(1595)4月の、秀吉が亀井茲矩にあてた朱印状である。それには、西伯耆国の日野山で銀を発見したことを賞し、早く掘って有る限り運上せよ、と記されている。

●わずか1年で…
 当時、この地は吉川広家(ひろいえ)領に属していたため、安國寺恵瓊(あんこくじえけい)が伯州銀山の採掘・経営権が広家に与えられるよう秀吉に要請したという。これにより、文禄5年9月付の秀吉の広家あての朱印状で、伯州日野の銀山の経営権を広家に与え、銀ができ次第運上せよと命じている。したがって、茲矩に与えられた経営権が、翌年には広家に移されたことになる。

●銀山の隆盛
 間歩(まぶ=坑道掘)は、中石見から上石見にかけて約3kmの間に、試掘2坑を含めて8坑の跡が確認されている。産出された銀は「伯州灰吹(はいふき)銀」として知られ、旧坑は元禄時代まで約百年間採掘が続けられたが、その後産出がなく、廃坑になったという。
 銀山の盛んな頃、町坂といわれる道すじは「町坂千軒」と伝えられ、宝暦時代に石畳道に改修したことを示す石碑も残っており、その隆盛がしのばれる。

【参考文献】  『伯耆文化研究 第2号』  『日野郡史』  『鳥取県史2』 
         『鳥取県の地名』  『角川日本地名大辞典31』

日野銀山
【中石見】

町坂石畳道の記念碑